双子の娘たち、新生児死を経験したおはなし

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今日は双子の娘たちのおはなしをします。

2021年の9月に妊娠が発覚し、3回目の検診で双子とわかりました。
双子に関しての知識が全くなかった私と主人、双子発覚時は嬉しさよりもびっくり!え!みたいな感情でいっぱいでした。

双子というのが発覚した際、一絨毛膜一羊膜双胎【MM双胎】(一卵性の双子で、双子の間に膜がないタイプ)と言われました。先生から説明を受け、2人の間に膜がないため、へその緒がこんがらがって出産まで至らないケースもあると言われ不安でしょうがなかったです。

お家に帰ってからは検索魔となり、悪い事しか書いておらず次の検診まで気が気でなかったです。

1週間後の検診で、なんと膜が見えてMM双胎からMD双胎(双子の間に膜があるタイプの一卵性)となりました。そもそも双子にこんなに種類あるなんて知らず、色々と勉強になりました。

それからは双子なのにも関わらずほぼつわりもなく、快適な妊婦生活を送っていましたが妊娠15週?頃に近くの銭湯に行っていたら突然の出血。なかなかの出血量でしたが、なぜかあまり心配しておらず、念のため病院に電話をし、痛みがなくて出血が多くなってなかったらとりあえず安静でOKと言われ、お家に帰ってゆっくりしてました。

翌日、念のため病院へ行ったところ、ほぼ入院のレベルだよ!切迫流産!!トイレ以外は横になってて!と言われ、その日から2週間自宅で絶対安静。

ちなみにお仕事もしていたので急遽2週間お休みとなりました。

それまで順調で、双子妊娠全然大丈夫じゃん!と思っていた矢先に切迫流産。
双子妊娠の大変さを実感しました。

そして切迫流産で絶対安静中の中、安定期を迎え、安定期とは?全然安定してないじゃん。と思いながら過ごしていたことを覚えています。

そして絶対安静中に急にお腹が大きくなり、胎動も感じ始め、2週間後にはしっかりした妊婦姿になっていました。

2週間後の検診で、絶対安静は解除となり仕事復帰。
仕事先ではお腹の大きさにびっくりされていました。

そして無事年末年始を迎え、年始の検診で先生から、双子ちゃんの体重差が結構開いてきたから、もう少し大きい病院で診てもらってください、と言われ急遽転院。

その1週間後に新しい病院で診てもらったら、双子の体重差が結構大きく深刻な状態、と言われまたもやパニック。順調に過ごしていたのにまた双子妊娠の大変さを知りました。

それから1週間に1回の検診となり、検診の日は仕事もお休みをいただきながら通院していました。

そして1月半ば、検診の際に、子宮頚管が3センチをきっているので危険。自宅安静で。とのお達しが。
またもや自宅安静となり、仕事をお休みに。この時は子宮頚管が伸びるストレッチを頑張ってしていました。

それから子宮頚管がまたグンと伸びるわけもなく、そのまま産休に入りました。

その後検診時に、双子の1人の子の体重の増加が少ないということで3月中旬位から管理入院となりました。普通に動いて生活できた妊婦期間3ヵ月。それ以外は基本お家で安静。思っていたハッピーマタニティライフとは大違いでした。

入院をしてからは、1日1回NSTという赤ちゃんの心拍とお母さんのおなかの張りを確認する装置をつけてみてもらったり、1日3回赤ちゃんの心拍確認があったりと、凄く安心して過ごせました。

入院から2週間が経つ頃に、やはり1人の子が体重が増えないのでお腹の中ではなく外に出して成長させましょうとのことで、妊娠32週5日の3月31日に帝王切開となりました。

この時に思ったことは双子で小さいのにも関わらず3月31日生まれ、、、大変そうだ。でした。

帝王切開当日、双子たちはしっかり2人とも産声を聞かせてくれました。
お姉ちゃん1734g、妹ちゃん1010gと小っちゃい我が子達を見て本当に2人お腹の中にいたんだと感じました。

その後、は双子たちはNICU(新生児集中治療室)に入院、検査をしてもらい、特に大きい異常は見られないという事で出産当日は凄く安心していました。

翌日、NICUの先生から妹ちゃんのアンモニア値が高いという事でお話があり、アンモニア値を下げるお薬を投与します。一過性のものかもしれないので、検査をしていきますとおはなしがありました。

おはなしがあった後、たくさん検索しましたがよくわからず。
そしてその翌日には、お姉ちゃんもアンモニア値が高くなってきたと。遺伝子が同じ一卵性の双子なのでわかってはいましたがとても苦しかったです。

そして二人とも、特に体重の少なかった妹ちゃんの方が特に容態が悪くなっていき、たくさんの点滴を付けられ、管が体中にあり、意識も朦朧で見ているのが本当に辛かったです。

今でもトラウマなのですが心電図?の異常があるとなるピーピーという音。NICUでその音をたくさん聞き、幻聴まで当時は聞こえていました。

先生からは現時点で可能性がある病名は『ミトコンドリア病』の疑いとのことでした。
初めて聞いた病名。検索しまくりました。出てくるのは母体由来の病気という結果。

それを見た瞬間にたくさん泣きましたし、自分を責めました。私のせいで娘たちが。

心配してくださった先生が、遺伝科の先生を呼んでくださり初めてミトコンドリア病の説明を受けました。遺伝科の先生曰く、母体由来の場合もあるが可能性はきわめて少ないとのこと。

その一言ですごく安心したのを覚えています。

NICU、遺伝科の先生から、今現状は異常な値がある部分を投薬で抑える事しかできない、ミトコンドリア病の薬はない。ミトコンドリア病の確定診断をするためには、娘たちの皮膚の検体を検査し、確定まで時間がかかると説明を受けました。

その後も投薬や交換輸血を行いましたが、容態は良くならず妹ちゃんが生後10日で亡くなりました。
そして妹を見送ったかのように、翌日にお姉ちゃんが生後11日で亡くなりました。

まさか2人とも亡くなるなんて思っておらず、自分のことのように感じることが出来ませんでした。
ドラマや映画を見ているような、現実ではないと思い込んでいました。

娘たちが亡くなり1年8ヵ月ほどですが、今思うと当時の記憶があまりありません。
娘たちが亡くなったその日に2人ともお家に連れて帰った記憶と、火葬の時の記憶はありますが、それ以外の記憶がほとんどなく、現実逃避していたのかなと思います。

未だに鮮明に覚えているのが、娘たちを連れて帰るとき、今回の妊娠出産でかかわった産科、新生児科、遺伝科すべての方々が出口までお見送りに来てくれ、それを見て号泣したこと、忘れられません。

娘たちを出産した病院ですが、小児の病院で先生や看護師さん皆さん凄く温かい方ばかりでした。
その後の妊娠流産となった時もそこの病院にお世話になりました。これからも今のお家に住んでいる間はずっとそこの病院にお世話になる予定です☺

凄く長くなりましたが、私たちが娘達との思い出作りにしたことを紹介します。
・手形、足形(娘たちがまだ生きている間にしました)
・沐浴(亡くなったあと)
・一緒に過ごす/寝る(お家に連れて帰ってきた後火葬までたくさん一緒に時間を過ごし、一緒に寝室で寝ていました)
・火葬の際たくさんのお花をいれる
・棺の中に母乳を入れたパックをいれる(搾乳たくさん頑張ったけど飲ませて上げれなかったのでいれました)
・家族写真をとる(生きている時も亡くなった後も写真をとりました)
・たくさん愛を伝える

今思うともっと他にもいろんなこと出来たよな~と思いますが、当時はこれをするだけでいっぱいいっぱいでした。

凄く事細かに娘たちの妊娠中から出産までを書いてみました。
これを書く間にも涙が止まらず、なかなか書き終えるまでに時間がかかりました。

1年8ヵ月ほど経っても涙は出ますし、苦しくなります。
苦しい思い出なので正直あまり鮮明に思い出したくないです。ですが頑張って生きてくれた10、11日間をちゃんと思い返したり、頑張ったね、偉いよ!と娘たちに伝えるのも必要だなと思っています。

長くなりましたが、妊娠から出産、その後までなかなかハードな経験でした。
ですが娘たちが私たち夫婦のもとに来てくれたことには意味がありますし、お空にかえってしまったのにも意味があると思っています。

私たち夫婦をパパママにしてくれた娘たちに感謝です。

ここまで読んでいただきありがとうございました 🙂

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